石尊山
観音寺

人生の修行
「いま・ここ」がその場
2015年9月21日
お釈迦(しゃか)様は「人生は苦なり」と説いている。人は何のために生まれ、何のために生きているか。それを象徴するように、テレビや新聞、雑誌などで仏教が取り上げられている。今でこそ和尚として平常心を保つことを心がけているが、私も長いあいだ、目的も分からず苦悩と病気を抱えて生きてきた。
二五年ほど前、役員を務めていた会社が経営破綻した。私は自己破産し、家族と離れ離れになり、さらに腎臓(じんぞう)がんになり途方にくれた。当たり前のように存在していた健康とモノが自分の手から離れ私は初めて、それがかけがえのない大切なものだったのだと気付き、「もう自分には何も残っていない」と絶望した。
その後は人目を避けるように、裏方の仕事を転々としていた。そのなかでも特にラブホテルの清掃の仕事が転機となった。短い時間で浴室、床などの完璧な掃除が求められる過酷な職場で、ともに働いていた女性たちは、一癖も二癖もある人ばかりだった。やがて何げない会話から、彼女たちが壮絶な人生を送っていること、自力で己を変えながら「本当の幸せ」を求めて懸命に生きていることを知った。同時に、私自身の愚かさがひどく恥ずかしくなった。
そのころ参加した坐禅(ざぜん)会で「本来無一物」という言葉と出会った。人は何も持たずに生まれ、地位も財産も何一つ自分のものではないという教えである。この言葉に感銘を受け、私は『死ぬまで生きる』禅僧を志すことを決めた。
幸運にもご仏縁が結ばれ、曹洞宗大本山総持寺での修行が始まった。祖師の決めた厳しい規則にしたがって生活を送りながら、「正しい行動」を生み出す「正しい心」を持つことを目指して自己鍛錬した。そのなかで、何が起きたとしても、すべての物事に対して自力で一生懸命取り組むことが修行なのだと気づいた。それはラブホテルでともに働いた彼女たちの生き方にほかならない。修行とは何ら特別な場所や環境ではなく『いま・ここ』がその場なのだ。
誰でも幸せになれる身近な修行のひとつに「無財(むざい)の七施(しちせ)」がある。財産を持たずとも、優しい心があれば立派に果たせるという七つの教えだ。いつも笑顔で人と接する「和顔施(わがんせ)」、相手の立場になって思いやる「心施(しんせ)」、愛情のこもった言葉をかける「言辞施(ごんじせ)」など、他人と良い関係を築くために誰もが行っている当たり前のことが、実は人生において大切な修行になる。
支えてくれた人たちの笑顔と思いやり、愛情のこもった言葉のおかげで今の私がある。和尚として仏の教えを説きながら、自分が仏教に救われた経験を生かし、参拝者の悩みに耳を傾けている。私に悩みを打ち明けた方の、心なしか晴れやかになった表情を見るたびに、これまでの苦悩が人々の役に立ったのだと、少し誇らしく思えるのだ。